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倉敷ホーリネスチャーチメンバー、r.k 姉の証です

姉がほしい

 私が心に「渇き」を覚えるようになったのは、中学二年の頃です。両親、兄や妹そして友人に囲まれながらも、ズキズキ痛むような淋しさ、むなしさを感じていました。また、「姉がほしい」といつも思っていました。私のことを愛し、いつも見守ってくれる。悪いときには優しく叱ってくれるような姉が、欲しくてたまらなかったのです。でもそんな願いがかなうはずありません。私は満たされない心を持ち続けていました。
 高校二年になっていたある日、英語講座を聞こうとしてラジオのスイッチを入れたところ、突然賛美歌が流れてきました。吸い込まれるように耳を傾け、翌日から毎晩聴くようになり、そのラジオ番組の勧めに応じて聖書の通信講座を受け、教会を紹介していただきました。
 学び初めてから二ヶ月後には神様を信じる決心をすることができ、そして聖書を読み、祈るようになってから数ヶ月後、ふと気がつくと、かつてのむなしさ、姉を求める思いがまったくなくなっていました。「ああ私が求めていたのは姉ではなく、神様だった。」そうわかったのです。

信じてる?

 ただ、当時の私はまだ罪についてよくわかっていませんでした。優等生でほめられることが多く、大きな過ちもおかしたことがありません。自然に人をさばくようになっていました。家族に対してもそうです。私だけが正しい人間だと信じ込み、教会で説教を聞いていても、「この話は妹に聞かせてやりたかった」などと思う始末でした。
 そんな頃、友人から「あなたは神様を信じているのではなく、キリスト教の清らかさにひかれているだけではないか」といわれました。ショックでした。「神様、私は本当にあなたを信じているつもりなんです。でも違うんでしょうか・・・。」涙を流して何時間も祈りました。初めてのことでした。
 涙もかれた頃、ふと手にした信仰書にこうありました。
 「『死もいのちも・・・どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』(ローマ8・38〜39)。だれが何といおうと、あなた自信がどう思おうと、神様はあなたを愛していてくださるのです。」
 愛されている喜び、祈りに答えをいただいた喜びで胸が一杯になりました。あとでわかったのですが、この体験がかたくなな私の心を開いてくれたのでした。このあと次々に自分の醜さや高慢さ、愛のなさを示され、人をさばくどころか、自分こそさばかれねばならない罪人であったことがわかったのです。
 私は家族の反対に会いながらも、その後、大学受験、就職、結婚、出産と大きな節目をいくつも通りましたが、信仰ゆえに、みことばによって支えられ、幸いな導きを得てまいりました。ふりかえってみて、「神様はなんとよくしてくれたことだろう」と思わずにはおれません。
 多くの信仰の先輩方にも祈られてきましたが、今は、家族で礼拝を守らせていただきながら、私がこれまでにしていただいたように、周囲の方々のために祈っていくものでありたいと願っています。

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