メッセージ要約
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teketekeのメッセージ要約です!

2006/10/01
ヘブル9:23-28
 「献げられたキリスト」

聖書抜粋:9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

<要約>

 信仰を持つ時とは・・・どんな時に神を求め、そして信仰を持って行くのでしょうか?
人さまざまとは思いますが、私の場合は「自然」と受け入れました。祖母からクリスチャンでしたから私で「3代目」となります。しかし、祖母や両親が主を信じたのには大きな理由があったのです。私の父の放蕩が治りますように・・・と「神にすがり」信じる事となったようです。
小さい時から教会へ集い、みんなと歌をうたう事が大好きでした。そしてあるクリスマスの時、主が私に語られ、私は告白し現在に至っています。
 人はどんな時に神を求めるのでしょう?平穏で順調な時に求めるのでしょうか?多くの方は、苦しみから逃れるため、またどうしようもなくなり、すがるものが無くなった時、求めてしまうとも聞いています。きっかけは様々ですが、主を救い主として受け入れ洗礼を受ける(新生)方がその中から起こされます。その瞬間は忘れる事のできない喜びに満たされるのです。
 そして洗礼を受けた直後から、主のために働きたい!何かお役に立ちたい!と思うようになってきます。目の前には先輩クリスチャンが、自身に満ち司会をする兄弟の姿や、賛美リードをする姉妹の姿があります。そして思いもよらない事ですが、「あの人の司会は上手いな、私にも出来たら良いのに。」とか、「私もあの姉妹のように美しく歌う事ができたら良いのに。」とねたみの心が生まれてきてしまうのです。
 さらに年月が過ぎて行くと、あれほど燃えていた伝道する思いがしぼんでしまう人も現れます。都会の教会では、教会員数100名で、礼拝出席者数20名なんて教会も実在します。残りの80名のクリスチャン、どこへ行ってしまったのでしょうね。
 ここで重要な事は、「碇(いかり)をどこへおろすか」だと思います。揺れ動く今の生活の上におろすのか、それとも「天」におろすのかで、クリスチャンとしての生き方そのものが変わってくるのです。キリストが一度だけ自らを捧げられた事により、私たちクリスチャンは、堂々と天に碇(いかり)をおろす事がゆるされているのです。もし今、教会から離れている方がいらっしゃるとしても、あなたも「天に碇をおろす」事がゆるされています。
 罪のかたまりである私たちが、神の前に申し開きをする時、キリストが共にいてくださり、「あなたの罪はゆるされているんだよ」と語ってくださるのです。
私たちの罪のために命をも捧げられたキリスト・イエスに日々感謝をもって祈りをささげる事ができる方は幸いですね。


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