メッセージ要約
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teketekeのキリスト教メッセージ要約です!

2008/10/05
ローマ4:1-8
 「とらわれからの解放」

聖書抜粋:4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

<要約>

神の子としてつくられた私たちですが、そのような生き方が出来ているのでしょうか?神の子としての自分に気づかぬまま流されるように生きている方、いらっしゃいませんか?
これは洗礼を受けたクリスチャンだけでなく、異宗教に生きるあなたも、無神論者のあなたも全て唯一の神から、神の子としてつくられているのです。

ここでは、アブラハムとダビデが登場していますが、彼らは行いによって神の義を得たのでしょうか?断じてそうではありません。「行いの法則」でなく「信仰の法則」により義とされたのです。
1節に「なんと言ったらよいか」とありますが、別の約では「何を得たのか」また英語訳では「何を発見したのか」となっていますが、二人は何を発見したのでしょう?
答えは『神の言を信じる幸いを発見』したのです。

先に記しました「行いの法則」と「信仰の法則」について簡単に説明いたします。
「行いの法則」とは・・・自らの過去の経験などから自分が考え行動する法則。
「信仰の法則」とは・・・自分から離れ神を信じ行動する法則。

アブラハムは100歳の時、神のことば通り子供(イサク)が与えられました。今までの経験や知識からでは100歳で子供を授かるなど考えられない事です。またダビデは王として、また人としてしてはならない不法、悪を行いました。そんな自分でさえも神は不法をゆるされ、罪をおおわれた(罪としてカウントされない)のです。そして今を生きる私たちも主イエスキリストの十字架により、神からゆるされているのです。

「行動の法則」から見れば、「そんな都合の良い話などあるはずないじゃないか!」となると思いますが、今までの乏しい経験から離れ、信仰の法則から自らを見てください。主イエスの十字架により赦されている自分を外から発見できるかも知れません。もし見つける事が出来るなら、頑なな自分、罪だらけの自分、不法な自分を発見できるかも知れません。本来なら救いようのない私たちですが、主イエスにより、神の子とされているのです。
どうぞ素直な心で神の救いの事実に感謝出来ますように。
不法、罪から解放され、神の子として生きる事ができますように。

今、主イエスによる救いを確信する信仰が与えられ、神から義とされますように・・・


テケテケ


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