メッセージ要約
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teketekeのキリスト教メッセージ要約です!

2009/08/30
ローマ9:30-33
 「主イエスこそ救いの岩」

聖書抜粋:33:「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」/と書いてあるとおりである。

<要約>

パウロは同胞の人々を見て、心が痛みました。同胞のイスラエル人は熱心に律法を求めますが、神から義とされず、逆に異邦人が義とされました。聖書に放蕩息子の記事がありますが、まじめに父の手伝いをした兄は父から誉められる事もなく、逆に放蕩三昧を行い無一文になり帰ってきた弟は父に帰って来た事を喜ばれ迎えられました。なぜでしょうね?

9:33はイザヤ28章の引用ですが、パウロは、つまずきの石、さまたげの岩と主イエスを比喩しています。Tペテロ2:6にもイザヤから引用されていますが、こちらは選ばれた尊い石、よりたのむべき岩と違う表現がされています。もちろんこちらも主イエスの事ですが伝える相手により解釈が変わっています。
イスラエルの人々は、信仰によらず行いによって義を求めました。本当は尊い石ですが、その石(主イエスキリスト)につまずいてしまったのです。これはイスラエル人だけでなく、私たちのモデルそのものだという事を忘れてはなりません。

キリスト教に興味があり、聖書を読み進めて行くと、つまずいてしまう箇所が出て来ます。マタイ5章の「山上の説教」です。あなたの隣人を愛しなさい。
自分の家族や味方なら愛する事もできるでしょうが、自分に敵する者を愛せよ。と主は言われるのです。そんな思いになれない。と思うのは正常だと思います。真剣に読めば読むほどつまずいてしまいます。そして理想は解るけど、自分には無理だと教会を離れてしまうのです。愛するという行為のみを重要視したため、つまずいてしまうのです。
行いにより、つまずいてしまった石ですが、それにより頼むなら、失望に終わる事がない事をまず覚えて頂きたいと思います。

行為により求めるなら、必ず自分自身につまずきます。なぜなら行いそのものが自己中心の考え、そうあるべきから行われるからです。行いを求めず、主を信じる信仰に立ち返る事が出来れば幸いです。
教会に行く行為、聖書を読み勉強する行為は良い事ですが、主イエスキリストを信じ、受け入れ、そして心を主に丸投げする事が出来ますよう祈ります。
信仰は頑張って勝ち得るものではなく、求める者に主から与えられるものなのです。

今週も主イエスキリストにあって、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ


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