2011/10/02
ルカ6:29-36
「あてにしないで与えるさいわい」
聖書抜粋:29:あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
<要約>
主の御名を賛美します。
悪い人にはレジスタンス、手向かうな。抵抗するなと主は言われます。が、はたして私たちはそう出来るのでしょうか?
(1)頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやりなさい
ほほを打たれる事は、名誉を傷つけられる事。しかも同じ記事でマタイは「右の頬を」と記していますが、右利きが多い中で、普通に平手内すると、左の頬を打たれます。なぜ右の頬なのか? それは手の甲で打たれる事で、より名誉を傷つける打ち方なのです。「こんな屈辱を与えて、いつか仕返ししてやる!」と思うところですが、主は反対側の頬も打たせ、自分の名誉を相手に渡しなさいと言われます。
(2)上着を奪い取る者には下着をも与えなさい
夜は強烈に冷え込む地です。上着を与える事は「命」までも差し出す事を意味します。しかし主は、命を奪おうとする者に、生きる権利まで与えられました。
ほどほどにクリスチャンとして生きている私には、何とも理解し難い事ですが、主はご自身の名誉人格、生命まで奪おうとする者にお与えになったのです。
主は私たちに何を向けられているのでしょう? それは自分の全てを私たちに向けられたのです。これが主の十字架なのです。主は私のために、そしてあなたのために全てを自ら捨てられました。
信仰はほどほどが良いんじゃない?
チンケなプライドに縛られる私たち。その心が主を十字架へかけてしまった事を決して忘れてはなりません。祈りの中でも、調子が良い時には感謝を捧げ、逆に自分の思い通りにならない時は、「どうして私の祈りを聞かれない」と神の頬をぶっていませんか?
そう一度も思わない人はいません。しかしその時、その心が主を十字架にかけた事、またその心が神の頬を打っている事を覚えて、悔い改めの祈りを捧げる事ができるなら幸いと思います。
今週も、私のために頬を打たれた主を思い、お過ごしください。
テケテケ