日本ホーリネス教団 | 〒710-0038岡山県倉敷市新田1299-12 電話:086−434−4766 岡山県倉敷市の正統的なキリスト教会です ※倉敷教会の地図はこちらからご確認ください※ |
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倉敷ホーリネスチャーチ |
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2008年9月28日 | 説教:山脇 望牧師 教会のページへGO! |
【聖書】ローマ人への手紙3章27〜31節 【説教】「神を誇りとする」 |
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3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。3:30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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メッセージ(要約) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主の御名を賛美します。 なぜ教会へ行くのですか? 唐突な質問ですが、クリスチャンだから日曜日には教会へ行って説教を聞くのが『当たり前』だから。とか、何となく行かないと後ろめたいから・・・などと思われている方はおられないと思いますが、教会へ行く事自体は『律法的』な事で、その行為のみを重視し本筋を間違えないようにしなくてはなりません。 聖書に入りますが私たちのどこに『誇り』があるのでしょうか? 答えは誇りなど全くありません。私たちクリスチャンも同じです。この書を記したパウロですが、彼は名家に生まれ、学問も学んだ人でまわりから見れば、誇りのかたまりのような人物でした。ですが彼は『私たちには全く誇りはない』と断言しています。それでは、誇りなど誰もが持ち得ないものなのか・・・? いえ、誇りはあるのです。それがどこに向かってか、だけなのです。 自分に向かう誇りであれば、自己満足以外の何ものでもありません。しかしそれが神に向かっている誇りなら、私たちが堂々と自信を持って言える誇りそのものです。 しかし神は、主イエスを信じる信仰により義とされた私たちを逆に誇りに思われているのです。毎週日曜日に礼拝を守り続けているからとか、良く奉仕をするからとか、伝道に熱心だからとか、行いにより義とされる事はありません。行いによる誇りは全くありませんが、主イエスを信じる信仰により神は私たちを誇っておられるのです。。 無差別な傷害事件が後を絶たない今ですが、彼らは後に、ターゲットとなる者は『誰でもよかった』と語っています。彼ら自身が人から『どうでも良い』人間と思われていると思いこみ起こしてしまった事件と言えます。自分の変わりはいくらでもいる。もはや必要とされていない、私には誇れるものなどないと・・・ しかし神は100パーセント、あなたを誇りとして愛しておられます。私たちは全て神の子なのです。しかしそれに気づかず罪を犯し続ける私たちですが、その罪を全て負ってくださった方がおられます。そうです『主イエスキリスト』だけが私たちの救いなのです。 では、律法は捨てた方が良いのでしょうか? 断じて違います。31節に、律法について記されていますが、福音が律法の基礎、足場を作るのです。そして律法と信仰は車の両輪のようなもので、バランス良く保たなければまっすぐ進む事ができません。そのバランスを保つもの、それは『福音』です。そして最も大切な福音は、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』だという事を付け加えておきます。 今週も主にあり、素晴らしい日となりますように・・・ テケテケ |
報告と消息 |
○9月22日(祝) 広島第一教会で『一日学院デー』が開催されました。 ○9月28日(日) 月例会が開催されました。 ○9月29日(月) 〜30日、山脇望師、教団会議のため上京されます。 |