創世記
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創世記01章

 はじめに神は天と地とを創造された。(1節)

 聖書の最初に置かれた創世記は世界の創造、人間の堕落、そして神の救いのご計画の初めについて書いています。
 一章1節は「はじめに神」という言葉で始まります。聖書は神の存在について議論したり、それを証明しようとはしません。神こそが初めからおられた方であり、神の存在など余りにも自明のことであって、論ずる必要などないのです。聖書の一ページ目にあるこの「初めに神」ということが世界のあるべき秩序なのです。
 そしてこの神は「創造者」です。神は何もないところから御言葉をもって世界を創造されました。神が語られる時、その通りになったのです。パウロは後に「無から有を呼び出される神」(ローマ四17)と言っていますが、これがおできになるのは神お一人です。
 神が創造者であると言う時、私たちはまた世界が目的をもって良いものとして造られたことを知ります。神は最初に天地を造られただけではありません。私達もまた神の御旨の中にあって造られたものなのです。
 


創世記02章

 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。(7節)

 神は六日間で世界を造り、七日目は休まれました。この創造の七日間は必ずしも現在の私たちの時計による二四時間×七ととる必要はありません。おそらく七つの期間に分けてということでしょう。もちろんまた今の私たちの時間感覚による一週間であっても、神には何の不都合もありません。そして神は七日目を祝福して、聖別されました。これはご自分のために特別に取り分けられたと言う意味です。これが安息日(もともとは土曜日でしたが、教会では日曜日にこれを守ります)の始まりです。日曜日は神のためのものなのです。やむをえず教会に来ることができないことがあったとしても、祈り深く一日を過ごしたいと思います。
 4節以降は別の角度から人間の創造について語られます。7節は人間が土のちりで造られた弱いものであること、けれども同時に神の息を吹き入れられた特別なものであることを教えています。一27には「神のかたちに」という言葉でいうのですが、人間は尊いもの・特別な使命を与えられたものとして造られたのです。
 


創世記03章

 「園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神が言われたのですか」。(1節)

 三章は人間の堕落について書いています。悪魔は蛇の姿をとって女を誘惑しました。悪魔はまず神の言葉を曲げ、それを疑わせようとしました。このことは今も同じです。悪魔は「神様がそうおっしゃてもねえ・・・」と御言葉に対する不信を起こさせようとします。そして悪魔の殺し文句はこれです。「あなたは神のようになる」。御言葉への不信と、自らを神にしようとする高慢、これこそが罪の本質的な部分なのです。
 男と女が神のお言葉に背いて善悪を知る木の実から食べた時、彼らと神との関係がおかしくなりました。彼らは神の顔を避けて隠れるようになったのです。また彼ら二人の関係も壊れていきました。罪を犯した後は罪を相手に、また別のものに、ひいては「神様がこんなものを造ったから」と神御自身に責任を押しつけるようになってしまったのです。
 けれども神はそんな人間を救う約束を与えられました(15節)。神が動物を殺して彼らのために皮の衣を造られたこともキリストのあがないを暗示していると言われています。
 


創世記04章

 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。(4節)

 アダムとエバには二人の男の子が生まれます。カインとアベルです。彼らはそれぞれ供え物を神様に持ってきたのですが、神が受け入れられたのはアベルの供え物でした。なぜ神がアベルの供え物を喜ばれ、カインの供え物を喜ばれなかったのか、聖書は多くを語りません。ただ確かなことはアベルは自分の持っているものの中から一番良いものをささげ、また供え物と共に自らを神様にささげたということです。「アベルと供え物とを顧みられた」という一句がこれを暗示しています。
 神はカインを捨てておられたのではありません。顔を伏せるカインに語りかけておられます。けれども彼は自分の心にわき上がるねたみをコントロールすることができませんでした。とうとう彼はアベルを殺してしまいます。それでもカインに語り続けられる神に、神の愛と忍耐を思わないではおれません。
 神の前にどのように礼拝をささげるべきか考え、また語り続けられる神の御前に素直な者でありたいと思います。
 


創世記05章

 エノクはメトセラを生んだ後、三百年神と共に歩み・・・神が彼を取られたので、いなくなった。(22、24節)

  ここにあるのは神に最初に造られたアダムから始まる系図です。アダムは九三〇年、セツは九一二年というように皆、私たちの常識で考えられないような長寿です。一年の数え方が違ったのだろうという説もありますが、ノアの時代の洪水の後には寿命が十分の一程度になっていきますので、洪水以後、地表に届く紫外線の量が増えて寿命が短くなったのではないかとも言われます。けれどもいずれにしても確かなことは洪水以前の人類も皆、「死んだ」ことです。
 そんな中、聖書はエノクについては「死んだ」と言いません。彼は神によって天に上げられたと言われます。彼は神と共に歩んだ人だったのです。それはまさしく一歩一歩の歩み、継続的な信仰と服従の姿勢を表しています。けれども同時に聖書は彼のそう言った歩みには出発点があったと記しています。メトセラの誕生が彼にとっての転機となったのです。あなたにはそんな転機がありますか。あなたは神と共に歩み続けておられますか。
 


創世記06章

 ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神と共に歩んだ。(9節)

時代がたつにつれて、人間は悪いことばかりを考え、乱れていきます。「暴虐が地に満ちた」(11)とあるほどです。その乱れの顕著なものの一つは性的な退廃でした(1〜4)。ついに神はご自分が造られた世を滅ぼそうと決意されます。
 けれども、そのような暗い時代の中、ただ一人ノアだけは正しい生き方をしたのでした。乱れた時代のただ中にあって一人きよい生き方をするのは決してやさしいことではなかったでしょう。もちろん、そんなノアは賞賛されるべきかも知れませんが、それ以上に神御自身が御自身の造られた世界を何とか救おうとノアを守り導かれたというのがより真相に近いように思います。私たちもきよい生き方をしようとすると、世の中の標準とは違う生き方をすることになるかもしれません。私たちは神と共に信仰の歩み(神に継続的に信頼する生き方)をしていきます。そして、もし私達がきよい生き方ができたとすれば、それは私達の努力や誠実さ以上に、神の恵みに守られたという事なのです。
 


創世記07章

 ノアはすべて主が命じられたようにした。(9節)

 神がノアに求められたことは常識的に考えるととても奇抜に見えたでしょう。巨大な箱舟を造るだけでも大変だったはずです。(一キュビトは四五センチ位と言われますから長さ一五〇メートル近い大きな舟です。それをノアとその子どもたちで作ったのです)。
 そして、それができると動物たちをその箱舟に乗せ、また自分たちも乗るようにと言われます。雨が降り、洪水が来るからと言うのです。ノア達が箱舟に乗った時にはまだ雨が降っていなかったかも知れません。けれどもノアはすべてのことを主の命じられた通りにしたのでした。
 ノアの時代の人々は洪水が襲ってくる時まで気づくことなく、自分のやりたい放題のことをしていました(マタイ二四37〜39)。そして彼らが気がついた時にはすでに遅かったのです。
 もう一度自らの歩みを点検し、悔い改めると共に、主に従う決断を新しくさせていただきたいと思います。
 


創世記08章

 神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。(1節)

 雨は四十日四十夜降り続き、地にいたすべての生き物は死に絶えてしまいます。生き残っていたのは箱舟にのっていた八人と動物たちだけでした。雨が止んでも百五十日は水がひきませんでした。けれどもノア達は神様の御心の中に置かれていました。もし神が彼らのことを救おうと考えられなかったら、彼らも又滅んでしまったことでしょう。水は一年がかりで引いていきます。
 ノアたちは水が引いていくことをどれだけ待ちどおしく思ったことでしょうか。けれども彼らは水が引いてもなお待ちます。そしてちょうど一年後、再び神のお言葉に従って彼らは地上に降り立ったのでした。彼らが一番最初にしたことは、祭壇を作って神にささげものをささげ、感謝と共に神を礼拝することでした。彼らは自分たちを心にとめていてくださった神に感謝しつつ新しい歴史を始めていったのです。
 


創世記09章

 わたしは雲の中に虹を置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。(13節)

 ノアが動物たちと共に箱舟から出て神を礼拝した時、神は彼らを祝福し、増え広がっていくように命じ、また人間が動物を食べることを許されました。ただ血を食べることは禁じられました。 血に命があるという考え方は後の血によるあがないという聖書のメッセージにつながっていきます。
 そして神はノア達と契約を結ばれます。これはノアやその子孫との間に結ばれた相互契約と言うよりは神が一方的な恵みによって誓われた誓い・約束です。それはノアの時代に起こったような大規模な洪水はもう二度と起こらないと言う永遠の契約でした。そして神はそのしるしとして雲の中に虹を置かれたのでした。
 私たちの歩みの中にも厚い雲がたれこめてくるように思えることがあるかもしれません。けれども雲が起きる時にそこに神の契約の虹が現れるとは、とても暗示に富んだことです。どんな困難の中に置かれる時にも、そこにも神の守りと祝福は伴っており、神の約束は変わらないのです。
 


創世記10章

 これらはノアの子らの氏族であって、・・・洪水の後、これらから全国民が分かれたのである。(32節)

 ノアの洪水の後、三人の子セム、ハム、ヤペテの子孫が広がっていきます。九章の最後の所にはハムとその子カナンが呪われた記事が出てきます。この箇所はアメリカである人々が黒人奴隷制の聖書的根拠としてきた箇所です。黒人は呪いを受けたハムの子孫だから、セムやヤペテの子孫に仕えるべきだというのです。これは非常に片寄った聖書解釈です。私たちは聖書をその信仰と生活の規範としていますから、それだけに聖書の誤った解釈には注意したいと思います。聖書を利用して自分のしていることを正当化することもできるからです。
 時代がたつにつれ、ニムロデのように権力をもって人々をまとめていく者たちも起こっていきます。そして聖書はこれ以後、セムの子孫を中心に話が進んでいきます。ただ、覚えたいことはセムもハムもヤペテもみなノアの子孫であり、全人類はノア(慰めの意)に与えられた祝福のもとにあるということです。
 


創世記11章

 さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。(4節)

 ノアの洪水の後、神は彼らに地に満ちよとおっしゃいました。けれども彼らは一つ所に住んで、その知恵によってどんどん技術を進歩させていきます。確かに神が与えられた知恵によって人類は多くのものを得、文明を開化させていきました。けれども神を恐れない知恵は悲しい結果をもたらすものです。彼らはついに神にも届くほどの塔を建てて、神にも代わり、神の言われたのとは違う歩みをしようとしたのでした。
 神はそれを憂えられました。人間の罪の行き着く先は真の神を捨てて、自分を神にするということなのです。神を恐れない一致は恐ろしい結果をもたらします。神は人々の言葉がお互いに通じないようにされました。そして人類は全地に散っていったのです。いわゆる「バベル(混乱)の塔」の出来事です。言葉が通じ合わないと言うこのバベルの出来事は後に新約聖書のペンテコステの日、弟子達がいろいろな国の言葉で神のことを語り始めるというところで回復されていきます。
 


創世記12章

 あなたは祝福の基となるであろう。(2節)

  十一章の後半からイスラエルの族長達の物語が始まります。 最初に出てくるのがアブラム(後のアブラハム)です。彼は元々はメソポタミヤ地方のウルという大都市に住み、その父テラもその地の神々を拝んでいたようです(ヨシュア二四2)。彼らは多くの財産を持っていたようですから、その地方の中心都市から移住するのは決してやさしいことではなかったでしょう。
 けれども神はアブラムをウルから引き出し、またテラの死後、再びカランで声をかけられます。アブラムを祝福の基とするとの約束でした。けれどもそのためには彼は自分の住み慣れた場を離れなければなりませんでした。アブラハムはすでに七五歳でした。けれども彼は主の言われたように、「行き先を知らずに」(ヘブル十一8)に出て行ったのでした。
 私たちは、神の御声を聞き、神に従う一歩を踏み出していきたいと思います。神は私達を祝福し、また祝福の基として、多くの人々に神の祝福をもたらそうとしておられるからです。
 


創世記13章

 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。(11節)

 アブラムと共においのロトも旅をしていました。けれども彼らの持ち物があまりにも多かったため、アブラムの家畜を飼うしもべたちとロトの家畜を飼うしもべたちの間に争いが絶えません。アブラムはロトに別れて別の方向に向かって行こうと提案します。アブラムはロトに選択権を与えます。そしてロトはヨルダンの低地を選び取ります。けれどもロトの選択は後々ロトの家庭に大きな問題を引き起こすことになります。
 ロトはまず自己中心でした。彼は真っ先によい方の土地を選びました。それに比べるとアブラムに残されたのは荒野と言ってもよい土地でした。またロトは見た目だけでその土地を選び取りました。それは確かに豊かに見える土地でしたが、そこに住む人々は道徳的に腐敗し、神の怒りを引き起こすような土地でした。
 アブラムはどんな思いでロトと別れていったことでしょうか。けれども、そんなアブラムに主は近づいて彼を励まし、約束の御言葉をまた新たにされたのでした。
 


創世記14章

 アブラムは身内の者が捕虜になったのを聞き、訓練した家の子三百十八人を引き連れてダンまで追って行き・・・。(14節)

 ロトの住んでいたソドムの町が戦いに巻き込まれた時、ソドムの王は形勢が不利になると穴に逃げ込んだり、山に逃げ込んだりしました。ロトも家族もとらわれの身になります。そして、そのことがアブラムの耳に入ります。アブラムはそのことを聞いた時に躊躇することなく立ち上がり、自分のしもべたちと共に敵を追って、これと戦い、ロトとその家族を救ったのでした。
 アブラムはロトを見捨てることをせず、そのために立ち上がりました。また、彼は訓練した家の子たち318人を率いて戦いに赴いたのでした。アブラムが職業軍人だったとは思いません。けれども彼はいつも備えられていました。318人という数は四人の王たちと戦うには余りに少ない数でした。しかし訓練を積んだ彼らは勝利を得ていきます。
 私たちも霊の戦いの中にあります。私たちはいつも備えられているでしょうか。
 


創世記15章

 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えて見なさい・・・あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。(1節)

 神はアブラムに「あなたの子孫にこの地を与えます」とおっしゃっていました。けれどもアブラムには子どもがいませんでしたし、待てども待てども子どもができそうにありません。そんな中で、アブラムにもあせりやあきらめが芽生えてきていたのかも知れません。神に食ってかかるアブラムに神は「星を数えて見よ」と語られます。アブラムが見上げた空には数限りない星が輝いていました。「あなたの子孫もあのようになる」。その時に、アブラムは天を造り、また数限りない星を造られた神であれば、不可能に思えることをも自分の生涯の中に起こしてくださるに違いない、と信じたのです。
 アブラムが何かをしたからではなく、彼が神を信じたゆえに神はアブラムを義とされました。信じたアブラムは偉かったというよりも、信じたアブラムは主の恵みのゆえに義とされたのです。後にパウロはローマ書で信仰によって義とされる(信仰義認)の根拠としてこの記事をあげています。
 


創世記16章

 主はわたしに子をお授けになりません。(11節)

  アブラムがカランを出てから十年が過ぎました。 もうすでにアブラムにとっても妻のサライにとっても実子を持つのが難しいと言うのは人間的には常識だったでしょう。そして、このような場合、女奴隷に子を産ませて、それを自分の子として育てるというのは当時の習慣としてはごく普通のことでした。サライは自分のつかえめハガルと夫との間に子をもうけることを提案します。そして、それは彼らの予定通りに大成功します。
 けれども、彼らが人間的な手段で物事を解決しようとしたことはアブラム一家に大きな問題を引き起こすことになります。また、ハガルの子イシマエルの子孫が今日のパレスチナ人だと言われることを思うと、アブラムたちの人間的な解決方法が歴史的にも大きな混乱をもたらす一因となってしまったと言わざるをえません。そしてそれ以上に十六章16節と十七章1節の間に十三年の空白があることを見る時に、アブラム夫婦と神様との間にもある意味でのすき間ができてしまったのではないだろうかと思われます。
 神にもこれはできないだろうとの不信仰を神はどれだけ悲しまれることでしょうか。
 


創世記17章

 主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ」。(1節)

 十三年の空白の後に、最初の一歩を踏み出されたのは神の方でした。神の方からアブラムに近づいて彼に声をかけられるのです。
 神はアブラムに「全き者であれ」とおっしゃいました。神の期待しておられたのはそれ以下ではなかったのです。けれども罪深い私たちが一体、全き者として歩むことができるのでしょうか。ですから、神がまずおっしゃったのは「私は全能の神である」との一言でした。人にできなかったとしても神にはできる。私は全能の神だ、だから心配しないで従ってこい。神が「全き者であれ」とおっしゃるときにそれは単なる命令ではなく、私があなたを全き者とするからという約束の言葉でもあるのです。
 神の前に降伏するアブラムに神は約束を更新し、アブラムとの契約のしるしとして割礼を定め、アブラムにアブラハム(多くの国民の父)、サライにサラ(王女)という名前を与えられたのでした。
 


創世記18章

 時に主は言われた。「私のしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」。(17節)

 アブラハムに現れて、一年後にサラと彼の間に男の子が生まれることを予告された神は、もう一つのことを心に持っておられました。それは道徳的にも腐敗しきったソドムの町を滅ぼすと言うことでした。神はそのご計画をアブラハムに隠しておくことを望まれませんでした。神もソドムの町とその町に住んでいる人々がすべて滅びることを願っておられたわけではありません。神にとってそれは苦渋の選択だったのです。そして神はアブラハムを信頼し、彼ならご自分と思いを共有することができると思われたのです。
 ソドムの町を滅ぼすという計画を神から明かされた時、アブラハムはその町のために必死のとりなしをします。神に詰め寄るようにして、「もし、十人の正しい者がその町にいたらその町を滅ぼさない」との約束を引き出したのです。神は今も神と思いを共有し、神の前に立ってとりなしの祈りをささげる神の民を求めておられます。
 


創世記19章 

 神が低地の町々をこぼたれた時、・・・神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。(29節)

  アブラハムがソドムの町のために必死になってとりなしの祈りをささげたその大きな理由は、その町にはおいのロトと家族が住んでいるというそのことでした。
 御使いはソドムの町に行き、ロトの家を訪ねて、神がその町を滅びに定められたことを告げ、すぐに逃げるようにうながします。それでもロトたちがためらっていると、今度は彼らの手をとって無理矢理、その町から連れ出したのでした。御使いは後ろを振り向かないで逃げるように言ったのですが、後ろを振り返ったロトの妻は塩の柱になってしまいます。
 助かったのはロトとその二人の娘だけでした。けれども聖書は彼らが助かったのはアブラハムのゆえだったと言っています。私たちはどれだけ自分の家族や親族のためにとりなしているでしょうか。神は私たちのとりなしの祈りを決して聞き逃されることはありません。祈ってもなかなかその人々は神様を信じないかも知れません。けれども、信じて祈り続けましょう。
 


創世記20章 

 そこでアブラハムは神に祈った。(17節)

 アブラハムの妻サラはよほどの美人だったのでしょう。またアブラハムを取り巻く当時の社会が一般にどれだけ腐敗していたかということを暗示するのかも知れません。そして実際アブラハムと妻サラとが異母兄姉であったということもあったでしょう。けれどもアブラハムがサラを「自分の妹」と紹介し、自分の妻であることを隠したことは明らかに神の御心と違うことでした。十二章ではエジプトで同じような事件を起こしていますので、これが二度目という事になります。
 けれども神はあわれみによってアブラハムとサラを守られます。もちろん神のあわれみがあるから罪を犯してもいいのだということではありません。私たちは神を恐れるべきです。ここで彼らが守られたのは一方的な神のあわれみなのです。そしてアブラハムは神に祈り、人々のためにとりなし、祝福を求めるという、彼に与えられた使命をもう一度回復させていただいたのでした。
 私たちも祝福を祈り、祝福を受け継ぐために召されています。罪を悔い改め、与えられた使命に生き続ける者としていただきましょう。
 


創世記21章 

 主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。(1節)

 アブラハムにとってもサラにとっても年老いた自分たちに実子が与えられるなどと言うのは笑うしかないことだったでしょう。イサクという名には「笑い」という意味があります。最初は不信仰の笑いだったかも知れません。けれども神は彼らを心から笑わせてくださいました。神様は「言われたように」「告げられたように」とあるように実に真実なお方だったのです。
 それだけに彼らが人間的な手段によって子どもをつくり、イシマエルを生んだということがによって、彼らの家庭が後々困難な問題を抱え込むことになってしまったということはとても残念なことです。そんな中で家を追われてしまったハガルとイシマエルは本当に気の毒です。アブラハムたちの不信仰が結局は他者をも困難の中に追いつめることにつながって行ったのです。
 けれども、そんなイシマエルにも近づいて、彼らを守り支え、導こうとされる神様の真実を思わないではいられません。
 


創世記22章

 「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの山に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。(2節)

 神はアブラハムにとってその子イサクがどんなに大切な存在であるかをよく知っておられました。けれども神はアブラハムにそのイサクを燔祭としてささげよと命じられます。「燔祭」とは動物を殺し、それを全部燃やしてささげるささげ物で、それは神への服従や献身を表していました。
 イサクは大切な約束の子です。彼が死んだら、神がアブラハムとその子孫を祝福するとおっしゃった約束はどうなるのでしょうか。けれどもアブラハムは黙々と神に従い、イサクもまた父アブラハムに身をゆだねます。ヘブル書の記者は「アブラハムは神がイサクが死んでもよみがえらせることができると信じていた」と解説しています(十一19)。神はアブラハムを受け入れ、彼を止められます。
 私たちは自分の一番大切なものを神様にささげることができるでしょうか。礼拝の本質は実にここにあります。そして後に、このモリヤの山にエルサレムの神殿が築かれたということもこれを暗示しています。
 


創世記23章

 「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。(4節)

 アブラハムの妻サラは寄留者としての一生を終え、地上を去っていきます。女性であったサラにとって、アブラハムと共に安定した生活を捨てて寄留者としての人生を選ぶと言うことはどんなに大変な事だっただろうかと思います。
 けれども同時にヘブル書の記者は私たちは皆、この地上においては寄留者なのだと言います。私たちが生きているこの世は私たちのふるさとではありません。私たちは天にふるさとを持っており、この地上においては私たちはあくまでも旅人なのです(ヘブル十一13〜16)。
 私たちもまた旅人に徹したいと思います。アブラハムとサラにはこの地上の生涯を歩んでいる間には墓地だけしか自分のものとしては与えられませんでした。私たちもこの地上の生涯において与えられるものは目に見えるものとしては多くないかも知れません。多くのものを抱えることで旅がしにくくなることもあるからです。天国への旅人として歩んでいきましょう。
 


創世記24章

 「娘が答えて、『お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら、その者こそ、あなたがしもべイサクのために定められた者ということにしてください」。(14節)

 妻サラをなくしたアブラハムでしたが、彼にはどうしてもしなければならない、気がかりなことがありました。それは息子イサクのお嫁さん探しと言うことでした。 けれども彼は自分が寄留しているカナンの地の娘たちの中からお嫁さんをさがすことは何としても避けたいと思っていました。その地の女性たちは異教の習慣に染まり、不道徳な面もあったのでしょう。
 アブラハムはしもべを自分の故郷に送り、自分の親族の中から息子のためのお嫁さんをさがすように言います。しもべは大変な役目をおおせつかったものだと思ったでしょう。彼は神の助けを求めます。そこで彼はテストをします。容姿がどうかではありません。その女性が労を惜しまず仕える、やさしい心の持ち主かどうかということです。その当時井戸の水を汲むことは重労働でしたし、らくだときたら飲める時には大量の水を飲むのです。けれどもリベカは気持ちよくそのことをしました。私たちはどうでしょうか。



創世記25章

 イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。(21節)

 リベカの存在は母親を失って悲しみの中にあったイサクに大きな慰めとなりました。けれども彼らにもまた子どもが生まれませんでした。イサク自身、神の約束によって生まれた子です。そして神が父アブラハムにどんな約束をしておられたか知っていたはずです。天の星のように浜辺の砂のようになる多くの子孫・・・。であれば、当然自分にも子どもが必要です。
 イサクの父アブラハムは信仰の父と呼ばれ、神の友と呼ばれた人物です。けれどもアブラハムに約束された祝福が受け継がれていくために、どうしてもイサク自身もまた神の前に自ら出ていくことが必要だったのです。彼は迫られるようにして神の前に出て、妻リベカのために祈ります。神は彼の祈りを受け止めてイサクとリベカの夫婦に双子の子どもを与えられたのでした。
 エサウとヤコブです。そして神の深いご計画の中で弟のヤコブが神様の祝福を受け継いでいくことがあらかじめ定められていたのでした。
 


創世記26章

 「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。(24節)

 イサクとその一家をききんが襲います。けれども神はイサクに声をかけ、そのききんの中にあっても神の祝福を約束されたのでした。ところがイサクは父アブラハムと同じ失敗をします。リベカが自分の妻であることを隠し、自分の妹だと言ったのです。自分の身を守ろうとしたのですが、彼は危うく自分とリベカの上に大きな災いを招くところでした。ここで彼らが守られたのはただただ神のあわれみです。
 神はイサクを祝福し、寄留の地にあっても必要な水を与えられます。それだけではなく、神は再びイサクに現れて、祝福の約束を更新されます。それはまさにアブラハムの信仰のゆえに与えられた神の恵みでした。 イエスの信仰とその十字架のあがないのゆえに祝福の中に入れられた私たちの幸いをもまた思います。
 


創世記27章

 エサウは父の言葉を聞いた時、大声をあげ、激しく叫んで、父に言った。「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」。(34節)

 イサクが年老いて目もかすんで見えなくなり、自分の死を意識した時、彼は自分の長子であるエサウを祝福しようとします。ただ、それは二五23で神がリベカに語っておられたこととは違っていました。リベカが夫をだましてまでヤコブに祝福を継がせようとしたことの背後には単に彼女がヤコブの方を好いていたと言うことだけではなかったようです。エサウは確かに勇敢でしたし、猟師としての腕もよかったかもしれません。けれども彼は軽率なところがあり、また彼は妻の選択という大切なことで両親を悩ませる決断をします。けれども彼自身は両親が心を痛めていることになかなか気づきません。またリベカは子どもたちが生まれる前に神がお告げになった言葉を覚えていました。
 ヤコブのしたことは確かにほめられたことではありません。けれども少なくとも、彼は兄エサウより神の祝福を求め、それを願うと言うことにおいて熱心でした。兄は、それは当然自分のもの、と求める気持ちが薄かったのでしょうか。彼がそれに気づいた時には彼は神の祝福を受けそこなってしまったのです。私たちも心したいと思います。
 


創世記28章

 「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。(16節)

 ヤコブは母親と一緒に家にいることが多かったようですから、兄エサウの怒りをかって逃れていくその道は大変心細いものだったに違いありません。日が暮れて、彼があるところで石を枕に眠っていると、彼は夢を見ました。自分のところから天まで届くはしごの幻でした。彼はその荒野もまた天とつながっており、天使たちが行き来していることを知ったのでした。そして、自分の祖父アブラハムの神、自分の父イサクの神が実に自分をも守っていてくださることを彼は知るのです。
 彼は孤独を感じ、神がそこにいて下さることなど予想もしなかったに違いありません。けれども神はまさにヤコブが横になっていたその場所にも共にいて下さったのです。私たちがどこに行く時にも主は共にいて下さいます。職場にも、家庭にも、学校にも主はいて下さいます。何としばしば、私たちは主がそこにいて下さるのにそれを知らないでいることでしょうか。
 


創世記29章

 ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛していたので、ただ数日のように思われた。(20節)

 ヤコブは自分の母リベカの兄ラバンの家に身を寄せます。伯父ラバンには二人の娘がいました。姉レアと妹ラケルです。ヤコブはその姉妹のラケルの方を愛するようになります。そして彼女と結婚するために、七年間ただで働いたのでした。けれども聖書はヤコブにはそれが数日のように思われたと記しています。ラケルを愛していたからであり、その愛するラケルと結婚するという目標があったからです。私たちも愛する人のために何かをすることは、何の苦にもならないはずです。いつも愛を与えていただきたいと思います。
 ところが、伯父のラバンはヤコブをだまし、レアの方をヤコブのもとに送ります。そしてヤコブはさらに七年ラバンのところでただ働きをすることになります。ヤコブも兄エサウをだましましたが、伯父のラバンはそれ以上うわ手でした。けれどもこのラバンにだまされる経験は彼の人間形成にとても大切だったのでしょう。かわいそうなのはレアです。けれども神は彼女をあわれんで多くの子どもを恵んで下さいました。イエスの出たユダ族も彼女から出た部族でした。
 


創世記30章

 わたしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました。(27節)

 ヤコブはレアとラケル、そしてそれぞれのつかえめジルパとビルハによって子をもうけていきます。旧約聖書においては一夫多妻の例が出てきますが、それは決して聖書が一夫多妻を認め推奨しているということではありません。神の定められた最初の秩序は創世記の二章にあるように一夫一婦でした。そして一夫多妻の人物はいろいろ困難な問題を抱え込むことが多いようです。ヤコブもそうでした。
 けれども同時に神はアブラハムとの約束のゆえに彼を恵まれます。そして、それは伯父のラバンも認めざるを得ませんでした。「わたしの生きている限りは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう(追ってくるでしょう)」(詩篇二三6)とダビデは神を賛美しましたが、同じ事はヤコブにも言えることであり、ラバンはヤコブを祝福しておられる主を見たのです。
 けれどもラバンは非常にずるい生き方をします。しかしそのたくらみを越えて、神はヤコブとその家族・持ち物を、ますます豊かにされたのでした。
 


創世記31章

 あなたの先祖の国に帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう。(3節)

 どんなに策略をもってヤコブをおとしめようとしても明らかに神がヤコブを祝福されて彼の持ち物が増えていく中で、ヤコブと伯父ラバン、そしてその家族の関係は崩れていきます。ヤコブはだんだん居心地が悪くなっていきました。けれども、そこにも神様のご計画がありました。家族が増え、持ち物が増えていく中で、神の祝福を受け継ぐべきヤコブが神様の約束の地から遠く離れてその地で安住してしまうのは神の御心ではなかったのです。
 神はヤコブに御声をかけられます。そしてヤコブは押し出されるように伯父ラバンの家から出ていったのでした。何も言わずヤコブとその家族が逃げ去ったことを知ったラバンはヤコブを追ってきます。けれども、神はそこでもラバンに直接語りかけて、ヤコブとその家族を守られたのでした。神は確かにヤコブと共にいて下さったのです。
 


創世記32章

 わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません。(26節)

 父の家、神が祖父アブラハムに約束された地に帰っていくヤコブにとって気がかりだったのは兄エサウのことでした。二十年前、エサウはヤコブに対して激しく怒り、ヤコブを殺そうとしていたのです。エサウは自分を受け入れてくれるだろうか。
 ヤコブはいろいろな人間的な対策を講じます。財産を二手に分け、またエサウへの贈り物を選んで、それをいくつかの組に分けて次々にエサウの元へと送ります。
 けれども彼は心配でした。彼は神に祈ります。それでも平安がありません。彼は家族にヤボクの渡しを渡らせて、自分だけが残りました。ところがそこに一人の神の使いが現れて、ヤコブと組打ちしたのでした。これはヤコブが必死に祈る姿だと言われます。彼は神を打ち倒そうとしたでしょうか。けれども神は彼のもものつがいをはずされます。そしてヤコブはしがみつくようにして、神の祝福を求めたのでした。神はヤコブに「イスラエル」という新しい名を与えられます。神の恵みを必死で求めるヤコブに学びたいと思います。 
 


創世記33章

 エサウは走ってきて迎え、彼を抱き、その首をかかえて口づけし、共に泣いた。(4節)

  神に祈って祝福をいただいたヤコブは、びっこを引きながらエサウの前に出ます。 彼は先頭に立ってエサウの前に進んだのでした。 もしエサウが襲ってきたら、足を痛めたヤコブは逃げることさえできなかったでしょう。 けれども神に祝福をいただいたヤコブは進んでいきました。
 二十年の歳月を経て、エサウの内にあった憎しみはすでに溶け去っていました。彼はヤコブを走り寄って迎え、共に泣いたのでした。
 けれどもヤコブの中にはなお疑いがありました。それだけ、彼の内にあったやましさというものは大きかったのでしょう。ヤコブはエサウの申し出を断り、セイルに行くと言いながら、方向を変えてシケムという町の前に荷を下ろします。ヤコブは神の約束・祝福をいただきながら、なお自分の内にあった疑いとか恐れをどうすることもできなかったのです。けれども彼がそこに天幕を張ってしまったことが三四章で大きな問題を引き起こすことになります。
 


創世記34章

 ヤコブの子らは野から帰り、この事を聞いて、悲しみ、かつ非常に怒った。(7節)

  ヤコブは祈って神に平安を与えられ、勇気をもって兄エサウの前にひれ伏し、二人の間に二十年ぶりに和解が成立します。けれどもヤコブはなおエサウに対する負い目が大きかったからでしょうか、なおエサウを心の底から信用することができません。そしてシケムという町の前に家を建てたことから、また彼の家庭に問題が生じます。彼の娘デナがシケムのつかさの息子にレイプされたのです。  ヤコブの息子たちはこれを聞いて悲しみ、激しく怒ります。そしてシメオンとレビが中心になって、シケムの町の人々をだまし、その町の男性を皆殺しにしたのです。  私たちはヤコブの息子たちの激しい悲しみや怒りを理解することができます。クリスチャンであっても怒らなければならない時があるのです。実際、イエスも激しく怒られたことが聖書には書かれています。けれども彼らの怒りにまかせた行動は本当の解決となったのでしょうか(ヤコブ一20)。  



創世記35章

 ときに神はヤコブに言われた、「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」。(1節)

 神はある意味で危機的な状況の中にあったヤコブに、御自身の側から声をかけられます。もともとはヤコブの愚かさから出た危機でした。けれどもそんなヤコブを神は見捨てられません。彼は創世記二八18以降のところで自ら誓っていたように、もう一度、初めて自分の神として神を仰いだ、その信仰の原点に立ち戻る必要があったのです。祭壇を築くとは神の前に祈り、礼拝をささげることです。
 ヤコブがそのベテルに戻った時、神は彼を祝福して、先に与えられていた「イスラエル」という名を再び与え、祖父アブラハムや父イサクに与えられていた約束を彼に新しく与えられたのでした。
 22節には長男ルベンの恥ずかしい事件が書かれています。長男ルベンと三四章の事件の中心になったシメオンとレビ(次男と三男)から、イスラエルの十二人の子どもたちの中心は四男のユダになっていき、ダビデもそしてイエスもユダ族の家系から出ることになります。
 

創世記36章

 こうしてエサウはセイルの山地に住んだ。エサウはすなわちエドムである。(8節)
 エサウはヤコブを心から迎えましたが、神がエサウもヤコブも共に祝福してくださったので、持ち物が多くて一緒に住むことができないと判断し、兄エサウの方が自ら身を引いていきます。ヤコブのしたことを怒り、ヤコブを殺さなければ収まらないと言っていたエサウでしたが、二十年という歳月の中で神はエサウをも造り続けておられたのでしょう。神が弟ヤコブに与えておられた特別な使命を多少なりとも理解できるようになっていたのかもしれません。
 エサウの子孫は今で言う死海の南方に移住していきますが、彼らはエドムびとと呼ばれるようになります。エドムとは「赤い」という意味です。聖書は創世記二五章で長子の特権よりも「赤い」豆の料理を欲しがったと言うところから「エドム」という名が来たのだと解説しています。私たちの子孫に名前が付けられるとしたら、どんな名前がつけられるでしょうか。
 

創世記37章

 兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。(4節)

 三七章からヤコブの子ヨセフの物語が始まります。 ヨセフはヤコブの十二人の息子たちの十一番目。ヤコブが特に愛していたラケルの子として生まれます。 けれどもヨセフの母ラケルはもう一人、ベニヤミンを産んで死んでしまいます。ヤコブにとっては最愛の妻の産んだ二人のひとりだったということ、また下の方の子どもだと言うこと、その上幼くして実の母を失ったということもあって、ヤコブはヨセフを大変かわいがります。
 親も完全ではありませんから、性格的に合うとか合わないとかもあるかもしれません。けれどもヤコブがヨセフを特別扱いしたことは兄たちの内に憎しみやねたみを作り出していきます。憎しみを持ち続けることは恐ろしいことです。兄たちはヨセフを捕まえて、奴隷として売り飛ばしてしまったのでした。兄たちは嘆き続ける父親の姿を見て、後悔したかも知れません。けれども、その時にはもう遅かったのです。そして、その負い目をずっと負っていくことになります。



創世記38章

 彼女(タマル)はユダによってみごもった。(19節)

 三八章はヨセフの物語の中に挿入されたヨセフの兄ユダのエピソードです。ユダはヤコブの四男でした。彼はカナンびとと結婚し、三人の男の子が生まれます。けれどもエサウがそうであったように、この結婚もいろいろな問題を抱えていたのかも知れません。息子たちも神様の怒りを買うような者たちになってしまい、ユダは長男と次男を失います。長男にはタマルという奥さんがいました。夫を失ったタマルは他の男性に行かず、夫の兄弟が成長した時に、彼と結婚して兄の名前をつがせるという当時の習慣に従おうとします。それは長男であった自分の夫や、その父ユダへの敬意と愛情から出たものだったでしょう。
 けれどもユダはタマルを自分の三男に近づかせようとしませんでした。タマルは身を挺し、知恵を用いてユダに抗議しようとします。そして遊女のふりをしたタマルと彼女の舅ユダとの間に双子の男の子が生まれます。タマルのしたことを現代の倫理基準で裁いてはいけないかもしれません。神はタマルを憐れみ、彼女はイエスの系図に名を残しています(マタイ一3)。
 


創世記39章

 主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。(23節)

 エジプトに向かった隊商はヨセフをエジプトの侍衛長(今で言う警察庁長官)ポテパルに奴隷として売り払います。父の愛情を一身に受けていたヨセフにとってそれからの年月は何と苦難に満ちたものだったでしょうか。ヨセフはポテパルから信頼されて一切のことをまかされる者となります。
 ところが彼の身にまたしても苦難が襲いかかります。今度はポテパルの妻が若く美形でスタイルも良かったヨセフに関係を迫ってくるのです。二人だけで誰にも気づかれないようなそんな状況の中でも彼ははっきりした態度をとり、彼女の前から逃げ出します。けれどもポテパルは妻のうそをうのみにして激しく怒り、ヨセフを牢獄に入れたのでした。
 どうして、どんどん状況が悪くなっていくのかと人間的には思う中で、けれどもヨセフは卑屈になることがありませんでした。聖書は「主がヨセフと共におられた」と言います。それは周りにいる人々がそれを認めざるを得ないほどのことでした。
 


創世記40章

 ところが、給仕役の長はヨセフを思い出さず忘れてしまった。(22節)

 ヨセフは牢獄の中でそこに入ってくる人々の世話をします。 そんな時、エジプトの王パロ(モーセの時代のパロとは別人物)の怒りをかって、給仕長と料理長が牢屋に入れられてきます。彼らは同じ夜に夢を見ます。奇妙な夢で二人は不安に駆られるのでした。
 ヨセフは彼らを励まし、彼らの夢を聞いて、その夢の意味を解き明かします。給仕役の見た夢は良い夢で彼は元の職に復帰しますが、料理役は夢の解き証しの通り処刑されます。
 ヨセフは給仕役に、無実の罪でずっと獄中生活を強いられている自分のことをパロ王にとりなしてくれるように頼みます。けれども給仕役は二年間ヨセフのことを忘れてしまったのでした。確かに給仕役も薄情だったと思います。二年という年月は決して短いものではありません。けれども、そこにも神の深い計画とご配慮がありました。ヨセフは神の定められた絶妙のタイミングで牢獄から出ていくことになるからです。
 


創世記41章

 また次の子の名をエフライムと名付けて言った、「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」。(52節)

 神のご計画の中で二年が過ぎました。 人間的には無情にも給仕役の長がヨセフのことを忘れてしまったということですが、そこにも神の働きがあったのでした。今度はエジプト王のパロが夢を見ます。 王はこれは何らかの御告げに違いないと思うのですが、誰もその夢を解くことのできる人物はいません。そしてそのタイミングで、給仕役の長はヨセフを思い出すのです。
 牢獄から引き出されたヨセフは神の助けにより、その夢の意味を王に語り、王に継ぐナンバー2であるエジプトのつかさとして採用されたのでした。王はヨセフを「神の霊を持つ人」と呼びました。
 ついに彼の苦難の日々に終わりが来ました。彼は自分に生まれた子に名前をつける時に、神の御業を思わないではいられませんでした。私たちも、また、悩みの地に置かれることがあるかもしれません。けれども神は、そこで私たちを豊かにして下さるのです。
 


創世記42章

 彼らは互いに言った。「確かにわれわれは弟のことで罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。(21節)

 ヨセフが解いた夢の通り、七年間の豊作に続いて七年間のききんが世界を襲いました。けれどもエジプトはヨセフの指導によって豊作の期間に食糧を蓄えていましたから、食べる物に困りませんでした。エジプトに食糧があると知った周辺諸国の人々はエジプトの宰相ヨセフのもとに食糧の買い出しにやってきます。
 ヨセフの兄弟もエジプトにやって来て、宰相ヨセフの前に立ちますが、まさかそれがヨセフだとは夢にも思いません。しかしヨセフにはそれが兄弟であることが分かりました。ヨセフも懐かしさがこみ上げてくるのですが、あえて彼は厳しく彼らに接します。兄弟の心の内を知ろうとしたのでしょう。
 ヨセフが奴隷として隊商に売ってしまってから相当の年月がたっていたことでしょう。けれども苦難に会うたびに兄弟たちは自分たちが過去に犯した罪を思い起こすのでした。罪は私たちの心を後々まで苦しめ、不幸にします。
 


創世記43章

 「どうか全能の神がその人の前であなたがたをあわれみ、もうひとりの兄弟(シメオン)とベニヤミンを、返させて下さるように。もしわたしが子を失わなければならないのなら失ってもよい」。(14節)

  エジプトで仕入れた食糧が底をつこうとしたとき、兄弟たちはエジプトの宰相の言葉に従って、今度は末の弟のベニヤミンを連れて行かないと許されないだろうと、父ヤコブを説得します。父ヤコブにとってはこれは耐えられないことでした。 もしベニヤミンの身に何かがあったらと考えると胸の張り裂けるような思いがしたことでしょう。けれどもとうとう他にどうにもしようがないことをヤコブも受け入れて兄息子たちと共にベニヤミンをも送り出します。
 ここでヤコブは全能の神に信頼して覚悟を決めたと言ってもよいでしょう。私たちの生涯にも神に信頼して、腹をくくるべきときがあるかもしれません。神はちょうどヨセフが兄弟たちが戻ってくるのを待っていたように、私たちが全能の神に全部をまかせることを待っておられるのです。
 


創世記44章

 「どうか、しもべをこの子供の代わりに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください」。(33節)

 ヨセフはなおも兄たちの心を試します。末の弟のベニヤミンが困難の中に置かれた時に一体どんな対応をするか。その時、ユダが前に進み出て語り出します。ユダはヨセフが十七歳の時に、彼を売ってしまおうと提案した張本人です(三七26)。けれどもこの時には違いました。もしかすると三八章の大失敗が彼の心に何らかの変化を与えていたのかも知れません。
 ユダはヨセフの前で必死の嘆願をします。どれほど自分の父親がベニヤミンを愛しているか、自分がベニヤミンの身を請け負ってエジプトに来ていること、そしてもし、ベニヤミンの身に何かがあったらどうなってしまうかということ。ユダは最後に言います。ベニヤミンの代わりに自分を奴隷として欲しい。ユダはもうすでに以前のユダではありませんでした。そして父を気遣い、弟のために身を投げ出そうとするユダを目の当たりにしたヨセフはついに自分を明らかにするのでした。
 


創世記45章

 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救いをもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのは・・・神です。(7節)
 ヨセフが兄たちへの復讐やいやがらせで、このことをしていたのではなかったことは、この7節のヨセフの言葉からも明らかです。ヨセフをイシマエル人の隊商に売り飛ばしたのはヨセフの兄たちでした。無実であった彼を牢獄に送ったのはポテパルの妻でした。そして、彼の恩を忘れて二年間も忘れていたのは給仕役の長でした。
 けれどもヨセフはその背後に神の働きを見ます。ここで主語になっているのは「神」です。目に見える現実の背後に働いておられる神をヨセフは認めたのです。ヨセフは兄たちを責めません。苦しい現実の中を通ったとしても、彼は自分の目の前に兄たちを見た時に、すべてのことがまるで霧が晴れるように見えてきたのです。自分と兄弟、その家族を救うために、神は特別にこのことをして下さったのだ、そのことを知らされたヨセフは涙せずにはいられませんでした。
 


創世記46章

 イスラエルはその持ち物をことごとく携えて旅立ち、ベエルシバに行って、父イサクの神に犠牲をささげた。(1節)

 「ヨセフが生きている。しかもエジプト全国のつかさになっている」という知らせは父ヤコブにとってどんなにうれしい、しかし信じられないような知らせだったことでしょうか。ヨセフは、飢饉が続くカナンの地から父ヤコブと一族をエジプトに招きますが、年老いたヤコブはまず自分の父イサクと過ごした地ベエルシバに行って、そこで祭壇を築き、神を礼拝します。彼は神が父イサクに「エジプトに下ってはならない」(二六2)と語られたその言葉を心に止めていたのかも知れません。神はイサクに苦しい時に神に信頼しないで、すぐに人間的な手段に訴えたり、逃げたりしないようにと注意しておられたのです。ヤコブはすでに何でも自分の思うままにしてしまうような人物ではありませんでした。
 神の前に出たヤコブに神は「恐れないでエジプトに下れ」と命じられます。この時にはすべてが神によって備えられた事だったからです。
 


創世記47章

 ヤコブはパロを祝福した。(7節)

  ヤコブはエジプトに迎えられ、パロ王の前に立ちます。 片やその当時絶大な権力をもっていたエジプトの王、片やしがない遊牧民、一三〇歳の老人です。けれども彼はパロ王を祝福します。 確かに彼の生涯は先祖に比べると一三〇歳といえどもまだ短かったかも知れません(アブラハムは一七五歳、イサクは一八〇まで生きていました)。確かに彼の一生は苦労の多いものだったでしょう。 若い時に親元を離れ、大変な伯父さんに仕えて二十年。その後、故郷に帰ったものの、愛する子ヨセフと別れて辛い日々を送ってきたヤコブ。
 けれども彼はパロを祝福します。確かに困難も多かったかも知れませんが、彼の生涯の中に神の祝福が注がれていたこともまた事実でしたし、彼とその一族はアブラハム以来、神の祝福を地のすべての民にもたらすために選ばれたものだったからです。彼はもう一度自分の生かされている使命を再確認させられたのです。私たちもまた祝福を受け継ぐために生かされていることを覚えましょう(Tペテロ三9)。
 


創世記48章

 「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生れてからきょうまでわたしを養われた神、すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください」。(15〜16節)

 イスラエル(ヤコブ)はエジプトでついに死の病の床に倒れます。けれどもイスラエルはきちんと自分の仕事を終えて死んでいきます。彼がしなければならなかったのは自分の子どもたちを祝福することでした。それはアブラハム、イサク、そしてヤコブと受け継がれてきた大切な務めだったのです。
 ヨセフは死を目前にしたイスラエルのところに自分の二人の子どもたち、マナセとエフライムを連れてきます。イスラエルはヨセフの二人の子どもたちを自分の子どもとして祝福します。イスラエルから十二部族が生まれるのですが、実はヨセフ族はありません。彼の二人の子どもがそれぞれ一つの部族をなしていくようになります。そしてイスラエルが預言したように、弟エフライムの子孫はマナセ族よりも大切な役割をイスラエルの歴史の中で果たしていくようになります。私たちは誰に神様の祝福を手渡していくのでしょうか。
 


創世記49章

 ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。(22節)

 ヤコブ(イスラエル)はいよいよこの世の生涯を終わると言う時に、自分の十二人の子どもたちを自分の枕元に集め、彼らを祝福します。彼の祝福はすばらしいものでしたが、長男ルベン、次男シメオン、三男レビに対しては非常に厳しいものでした。このヤコブの言葉は彼らに自戒を促すものだったのです。
 ヤコブが特に時間をかけて祝福の祈りをささげたのは、四男ユダと十一男のヨセフでした。ユダは後に全イスラエルを治めるダビデ王が出た部族です。イエスもダビデのすえとして生まれます。ヨセフにもヤコブは心いっぱいの祝福の言葉を語ります。
 最初に上げた御言葉はヨセフについて語られた聖句です。けれども同時に同じような祝福は詩篇の一篇でも歌われています。神様は私たちを良い地に植え、豊かな実を結ばせてくださるお方です。そしてかきねを越えるほど豊かに祝福をもたらすそのような者と私たちをして下さるのです。
 


創世記50章

 あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。(20節)

 父ヤコブが死んだ時、ヨセフの兄弟たちはヨセフを恐れて集まります。彼らは自分が過去にどんなにひどいことをしたか知っているだけに、ヨセフがその強大な権力を用いて、どんな復讐をして来るかという恐れに満たされたのでしょう。ヨセフは命乞いをする兄たちの姿を見て泣きます。ヨセフの心の中には復讐したいというような思いや憎しみはみじんも無かったからです。
 ヨセフは兄たちの憎しみや悪事を越えて、善意をもって導いておられた神がいらっしゃったということを知っていました。
 この世には確かに悪があります。私たちに対して悪いたくらみをし、悪意をもって近づいて来る人々も確かにいるでしょう。悪は現実なのです。けれども感謝なことはどんな大きな悪のたくらみも良きに変わらせて下さる、その力を持っておられる神がおられるということです。神はいつも私たちを救おうとしておられるのです。