(1998年8月2日:大阪教会 メッセンジャー:岡田信常師)
説教:岡田信常師 司会:羽野姉 奏楽:岡田啓子師 献金:片岡兄・兼彰兄 聖書:ヨハネによる福音書4章1〜26節 説教:『湧き上がる泉』 出張の関係で、大阪教会・岡田信常師のメッセージを聞く機会が与えられました。師の伝えたいメッセージと違うかもしれませんが、これは私が感じ取り、与えられた恵みの記録です。 メッセージタイトル:『湧き上がる泉』 このヨハネ伝は詩篇に少し似ていて霊的な恵みについて記されています。論理的に考えると結論に至ることがないかもしれません。しかし、この書は『神様を知らない人』にあてられて記されているのです。論理的でなく、霊的に感じることが大切なことです。 この箇所で「永遠の命の水」が出てきます。何だか解ったようで解らない・・・そうなんです。理屈で考えると『答』は出てきません。霊的に読んでいるとあるとき「スパーン」と答えが出ます。(まだの人は必ずもうすぐ来ます) さて、イエスはどうしてサマリヤに行かれたのでしょうか?それはパリサイ人達がイエスのバプテスマの事を耳にし、ねたみを持ったことを知ってサマリヤへと行かれたのです。 サマリヤに行かれた主ですが、当時はユダヤとの交流はほとんどありませんでした。ユダヤ人がサマリヤ人を見下していたのです。主はサマリヤの女に『水を飲ませて下さい』と言われました。上下関係などありません。むしろ、へりくだり頼んだのです。肉体的に弱ったイエスが記されています。 「かわくことのない水」とは何でしょうか? 水はクリスチャンなら皆与えられています。しかし、溢れていますか?分け与えるだけ溢れていますか?サマリヤの女は乾いていたのです。彼女は5人の夫を過去持ち、今は6人目の男と暮らしているのです。かなり、もてたのでしょうね。しかし、彼女は乾いていたのです。主に告白します「私には夫はいない」と。彼女は愛に飢えていたのです。聖書に6時に水を・・・と記されていますが、これは昼の暑い時間のことなのです。普通の人は涼しい朝早く水をくみに来ますが人目を避けてくみに来ていたのです。 疲れ切ったイエスが彼女に約束されました。「乾くことのない愛」を。彼女は神を信じました。ああ、こんな罪多き私でも神様を礼拝出来るのですね。本当の愛を悟ったのです。礼拝こそ彼女の「かわくことのない水」だったのです。 特別な場所だけでなく、いつでもどこでも神様を礼拝できます。そして、聖霊によって新しく生まれ変わり、礼拝する時が今来ています。真は主、イエスキリストによって変わり変えられるのです。 私のために命を投げ出して下さったイエスキリストの恵みに感謝はたえません。 PS 大阪教会の皆様、突然の訪問にもかかわりませず、ありがとうございました。 |